[名所行事案内] −炎地区 [栗ヶ畑区]−  戻る

 大字栗ケ畑の南部の山頂と、大字山内の西北部の山頂に炎という戸数5,6戸の小部落があった 今は皆んな下の部落に下りて住む人もない。
 標高300m程度のこの小部落は同じ炎でも、上の3戸は大字栗ケ畑に属し、下の2戸は大字山内に属して いるという変な行政区画である。栗ケ畑炎に登るには栗ケ畑の中央道路から約1500m程急坂を登ると30分を要したという。
 こんな不便な地にいつ頃から、何故住みついたのであろうか。いろいろ考え乍ら、元住人であった 佐藤夏実氏宅を訪れ、昔から伝わる系図の写しを見せて頂いた。その系図によると炎の佐藤家は(全部佐藤家)昔 大友軍の一員として慶長のはじめ、石垣原の合戦に敗れ一族とともに炎にのがれ百姓になったと記されてい るから、農民となり乍らも戦国乱世のことであるから三岳や八国等大友の残党と連絡をとり乍ら、一朝有事 の際は、のろしを上げて合図をする程度の密約があり、そのためこの地が炎という地名になったと考えられな いことはない。なお系図にはこの地名「炎野」と記してあり、後に炎となったのであろう。
 さて佐藤夏実氏の話しによると、この炎は一寸高い山の上であるから眺望はよく、朝起きると、祖母、傾、 九住、阿蘇の山々が眼前にみえ、夏は涼しく冬は割合暖く、不便をしのべば気持よい地であったという。耕 地は全部で約3町歩程あり、楽ではないが、生活に困らなかったという。全部が畑作で、陸稲、大豆、麦、 小麦、煙草、養蚕、みかん等を作り土質がよいため非常に質のよいものが生産されたという。特にみかんは 優品ができ、先代の人は秋になるとみかんを売りに歩いたという。冬は勿論炭焼に精を出した。
 こうした悠長な生活も、戦後の文化の波には耐えられなかった。第一電燈がないため、子供の教育が一番 心配でならなかった。道路は狭く急坂のため車が通れない。水も少く便利が悪く、今日のように毎晩入浴す ることもできず、どこかの家で風呂を沸かすと近所に連絡して皆んなで入浴していた。種々考えた揚句に佐 藤さんは昭和33年栗ケ畑部落の空いた家を買って下りて横手部落の住民となった。その後残った人は多大の 経費をかけて電燈をひいたが間もなく下におりてしまった。1戸は栗ケ畑に、2戸は山内に、1戸は県外に転出した。
 70才近くなった佐藤さんは青年時代に働いた炎の百姓を想い出したように炎が懐しいという。今炎には 若い時造林した轢が成長し椎茸の原木が存分できるようになり、山林は昔の炎の人と相談して県の公社造林 として桧が見事に生い茂っている。又部落の人のお蔭で作業道もでき炎に車が通ずるようになった。椎茸と りも車で5分で行けるようになった。徒歩で30分もかかった古里は今では目の前にあるのと同じといって 懐かしがる。
 [出典:長谷の里生活誌 (犬飼町長谷老人会 平成58年3月31日発行)]