武藤家長屋門(長畑)豊後大野市指定有形文化財

長畑の武藤弘氏宅はもと大庄屋で旧藩時代は長畑・山内・栗ケ畑の三大字を所管していた。 その邸宅も広大であるが、東側にある厩はその建築規模、方法から硫石に大庄屋 を偲ばせるものがある。今の厩の建築年代は江戸末期のものらしいが、石垣等 は江戸中期以前のものかもしれない。厩は屋敷の東南に金の手に造ら れている。その間口は南側5間、東側は17間、奥行 は3間と3間半の場所が半分程あり、中央には間口2 間の潜り門があり、村人はこの潜り門(通用門) から 出入りしていた(正門は南側にある)。その潜り門の南 側は馬屋と堆肥舎で一般農家のものより随分広い。こ れは庄屋も普通農家以上農業をしていたことを物語っ ている。然も昔は総2階造りで、2階にはわらや小麦 稗を蓄えて、住宅の屋根葺に備えていたらしい。潜り 門の北側は六坪程の部屋があり、小人数の会合や、子 供の手習いはこの部屋をつかったらしく、現在もその 面影が残っている。又その隣には10坪程の大部屋が あり、部落の集会にはこの部屋を使ったらしいが現在 では取壊わされて空地になっている。この長屋は総建 坪46.5坪あったようだが、前記の一部を取壊わし ても36.5坪ある。
 以前はこの厩も草葺であったが、大正12年近所に 火災があり、危険を感じた武藤亀人氏はその直後屋根 を瓦に葺替えたという。
 以来60年近く経って昭和56年武藤弘氏は、厩 がかなりいたみ、危険な状態になり、この建物の必要 性もないと痛感し、これを取壊し、近代式の塀を造る 計画であったが、これを知った各方面からの慰留や、 犬飼町教育委員会の取計いにより、大阪工業大学青山 教授(建築学者)の助言等により、取壊を思い止まり、 屋根と瓦、若干の木材を取替えて復旧することになり 昭和56年冬完成した。これにより武藤氏は多大の 経費を費したが、珍しい建物として県下に誇る名所が 長谷の地に残ることになった。この家の柱は江戸末期 の百姓一揆の際傷つけられたものが残っており、犬飼 町教育委員会は昭和58年1月、町指定の文化財に 指定し長く保存されることになった。
[出典:長谷の里生活誌(長谷老人会 昭和58年3月発行)]

 武藤家はもと大庄屋で、旧藩時代は長畑・山内・粟ケ畑の三大字 を所管していた。
 邸宅は広大で、長屋門は北側にあり、その建築規模や方法からし て大庄屋を偲ばせるものがある。
 昭和55年に大阪工業大学教授(建築学)の工学博士青山賢信氏 が調査されて、建築年代は江戸末期のものらしいが、石垣等は江戸 中期以前のものと推定されている。
 問口は、南側9メートル25センチ、東側31メートル45センチ、 奥行5メートル55センチで、東南に金の手に造られている。暴風雨 などによる倒壊を防ぐために建て増したものといわれている。  中央に間口3メートル75センチの潜り門があり、村人はこの潜り 門から出入りしていたという。(正門は邸の南側にある) この潜り 門の南側に馬屋と堆肥舎がある。北側には20平方メートル程の部屋 があり、少人数の会合や子供の手習いなどに使用したらしく現在もそ の面影を残している。またその隣りには33平方メートル程の大部屋 があって部落の集会などに使用されていたらしいが、現在は取壊わさ れていて空地になっている。
 以前はこの長屋門は草葺であったが、大正12年近所に火災が起 きたため、危険であるということで、その直後に瓦に茸替えたとい う。
 昭和56年当主の武藤弘氏は、長屋門がかなりいたんで危険な 状態となり取壊そうとされたが、各方面からの慰留もあって思い止 まり、大修復してこの建造物が残ることとなった。
[出典:犬飼町の文化財 (犬飼町教育委員会 平成17年2月発行)]